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浦和地方裁判所 昭和55年(ワ)424号 判決 1983年1月31日

原告

國松利貞

右訴訟代理人

石川博光

広瀬正晴

被告

大久保裕雄

右訴訟代理人

尾﨑重毅

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  原告

「1 被告は、原告に対し、金一八八五万五一七九円及び内金一四八〇万八〇〇五円に対する昭和五五年五月一六日から、内金四〇四万七一七四円に対する昭和五六年四月七日から各支払ずみまでいずれも年五分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行宣言。

二  被告

主文同旨の判決。

第二  当事者の主張

一  原告―請求原因

1  原告は、昭和四六年二月上尾市から別紙第一物件目録(一)記載の土地(以下「原告土地」という。)を買い受け、同土地上に昭和四七年一〇月原告夫婦の老後の生活の資とすべく同目録(二)記載の賃貸アパート(以下「原告アパート」という。)を、昭和四八年九月には原告家族が居住する同目録(三)記載の居宅(以下「原告居宅」という。)をそれぞれ建築した。原告土地は、国鉄上尾駅から徒歩で約五分という交通至便な場所に位置するのに、その周辺は木造一般住宅、木造アパート等が大部分を占める閑静な地域であつて、原告アパートが建築されたころはその南側の日照・通風とも十分であつたため、右建築工事完成直後から原告アパートへの入居申込みがあり、原告は同アパートの四戸分全部について賃料を得ることができた。

2  大久保公明は、昭和四五年一一月に原告土地の南側に隣接する別紙第二物件目録(一)ないし(三)記載の土地(以下「被告土地」という。)を上尾市から買い受けてこれを長期間空地として放置していたが、その後被告は公明から右土地を借り受けて、昭和五四年五月ごろから、日本住宅公団とともに右土地に間口25.4メートル、奥行11.5メートル、高さ14.6メートル規模の同目録(四)記載のマンション(以下「被告マンション」という。)を建築すべく、日本住宅公団を建築主として、それが完成した時には日本住宅公団がその所有権を被告に譲渡する旨の約定のもとに、そのころ日東建設株式会社(以下「日東建設」という。)に被告マンションの建築工事を請負わせてその工事を開始した。そして、被告マンションは、昭和五五年六月ごろ完成し、被告はそのころ日本住宅公団から右マンションの譲渡を受けた。

3  被告が右マンションを建築したことによつて、原告は、後記4のとおり損害を被つたが、これは次のとおり社会生活上要求される受忍限度を超えるものであつて、原告に対し、不法行為を構成するものである。

(一) 被告マンションの基礎工事のために行われたボーリングおよび掘削作業にともなう震動によつて、原告アパート南側のコンクリート基礎部分に亀裂が生じ、同建物の耐久性が著しく損われた。仮に、右亀裂が右ボーリングまたは掘削作業の震動自体によるものではなかつたとしても、被告土地付近の土質は、多量の水分を含んでおり、地表から七メートル位の深さまでは、いわば軟弱地盤であることから、被告マンションの建築にともなう右工事の結果地下水・土砂が流出するなどして原告土地の地盤が沈下したことによるものである。

(二) 被告マンションは、別紙図面のとおり、原告アパートの南側土地上に東西に細長く建てられ、その北側は中央部分で原告土地との境界線から約3.6メートル離れてはいるものの、東、西両端の部分では約2.3メートルしかないのに高さが14.6メートルもあることから、原告アパート南側開口部に対する日照が完全に阻害され、同建物一階の部屋は昼間でも電灯による照明を必要とするほどになつたほか、通風も最悪の状態となつて、原告アパート南側の地面にはなめくじが異常発生する事態さえ起きた。かような被告マンションの建築による原告アパートの日照・通風阻害は、被告マンションの構造、規模、位置からみて今後これを解消する手段、方法がない。

4  被告マンションの建築によつて原告の被つた損害は次のとおりである。<中略>

二  被告―請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実のうち、原告土地は国鉄上尾駅から徒歩で約五分の場所に位置し、原告アパートが建築されたころはその南側の日照、通風とも十分であつたことは認めるが、原告土地周辺は木造一般住宅、木造アパートが大部分を占める閑静な地域であるとの点は否認する。その余は知らない。

2  同2の事実のうち、被告及び日本住宅公団が昭和五四年五月ごろ被告マンションの建築工事を請負わせて右工事が開始されたとの点は否認する。被告マンションの建築は被告土地の所有者である公明が注文主となつて行われる予定であつたが、同人が日本住宅公団のマンション建築譲渡制度を利用することによつて建築資金の融資を受けるとともに建築されたマンションを同人の息子である被告の所有とすることにしたという経緯があつたため、被告土地の地質調査は公明の注文によつて日東建設がボーリング作業を行つて実施したが、その後の被告マンションの建築工事は日本住宅公団から建築工事の管理業務を委託された財団法人埼玉県住宅サービス公社(以下「住宅サービス公社」という。)と日東建設間の昭和五四年九月二〇日付の建築請負契約に基づいて実施されたのである。その余は認める。

3  同3の事実のうち、原告アパート南側のコンクリート基礎部分に亀裂の存すること、被告マンションの位置関係及び被告マンションの建築によつて原告アパート南側開口部に対する日照が阻害されたことは認めるが、その余は知らない。その主張は争う。

(一) 原告アパート南側コンクリート基礎部分の亀裂について

被告マンションの建築に際し、地質調査のため、被告土地の二か所にボーリングが行われたが、その作業方法は地下地層の土壌を採取するためにパイプを回転させながら地中に押し込んでいくものであつて周囲に震動等を生ぜしめるものではないし、被告マンションの基礎工事のために行われた掘削工事についても周囲に震動を与え被害を発生させる可能性のある既製杭打工法を避けて現場打工法(バケットで掘削し、そこへコンクリートを流しこみ杭とする方法)を採用しているので、右各工事によつて原告アパートのコンクリート土台に亀裂が生じることは考えられない。一般に木造住宅では無筋コンクリートで土台が作られることが多いうえに、コンクリートは、打設後時間の経過とともに水分が蒸発して収縮するため基礎土台の換気口部分など弱い部分に亀裂が生じることが屡々存在するのであつて、原告アパート南側コンクリート基礎部分の亀裂もその建築後の経過からみてコンクリートの収縮による亀裂であるといえる。仮に、右亀裂が被告マンションの建築工事によつて生じたとしても、地質調査のためのボーリング作業、基礎工事のための掘削工事のいずれの段階においても、前記のとおり被告はこれに関与していないし、右ボーリング作業については被告が注文者と解されたとしても、公明及び被告とも右作業に関して全く知識を有せず、日東建設に何ら作業に関する注文、指図などは行つていないから、被告には原告主張の右損害を賠償する責任がない。

(二) 原告アパートの日照・通風の阻害について

原・被告土地は、いずれも都市計画法八条一項一号に規定されている商業地域に指定された地域内にあり、その周辺地域は、店舗、事務所等を中心とした建築物の密集地域もしくは将来かような地域に発展することが期待されている場所であり、かつ昭和五一年の建築基準法の改正の際、新たに設けられた日照保護基準の規制から除外された場所である。かかる地域にあつては、第一種、第二種住居専用地域、住居地域等同法の規制を受ける地域と異なり、日照問題に関しては当該用途地域に応じた受忍限度が考えられる。しかるところ、原告は土地の高度利用を考えて別紙図面のとおり原告アパートを南側に接近した位置に建築しているうえに、原告アパートは商業地域に建築されるアパートとしては必ずしも適当ではない木造二階建である関係上、被告マンションが仮に三階建であつたとしてもその日照阻害(ただし、原告アパートの西側において、日照阻害を受けるのは午前八時から午後一時半ごろまでであつてそれ以降は全く阻害を受けない。)に変りがないし、被告は原告アパート、居宅の東側にある三階建マンションの所有者や居住者からは被告マンションの建築について何らの抗議も受けていない。また、原告の主張する損害は賃料収入の喪失という財産的損害であるところ、原告は、賃料の値下げ等による入居者の確保に努めた形跡もないし、原告土地のような場所では、アパート経営以外にも収益をあげる方法は色々考えられる。従つて、被告マンションの建築は原告に対する不法行為とはならない。

4  同4の事実は、いずれも知らない。仮に、原告アパートの南側コンクリート基礎部分の亀裂が被告マンションの建築によつて生じたとしても、建物の土台下の基礎は土台より上部にある建物の荷重を地盤に伝達する働きをしているのであつて、たとえ、その一部に亀裂が生じてもコンクリート基礎の上に設置された土台を通じて建物の荷重は基礎に均等に伝えられるので部分的に基礎のみが沈下したり崩壊することはない。従つて、基礎部分に亀裂が生じたことによつて、建物全体の耐久性が損われるということはあり得ない。

三  被告の抗弁

日東建設は、被告マンションの建築について、住宅サービス公社との間で前記建築請負契約を締結するに先立つて、上尾市役所及び埼玉県上尾土木事務所に対し、被告マンションの建築に関する事前審査手続をとつた(原・被告土地の所在地は建築基準法五六条の二による日影規制の対象とならない商業地域であるが、埼玉県及び上尾市においては、中高層建物の建築を行うには、近隣住民との間で日照問題等に関する紛争を工事着手前に解決しておくように建築主及び建築業者等に対し、行政指導をしていたので日東建設も被告マンションの建築工事に着手する前の昭和五四年四月ごろそのための手続をとつた。)が、その際、原告が被告マンションの建設に反対していることを知つたので、日東建設が被告の代理人として原告との間で、被告マンションの建築によつて原告が損害を被るとすればその損害を金銭で補償するということで折衝を重ねたところ、昭和五四年五月九日原告は自ら提示した金二〇〇万円を受領することで被告マンションの建築につき損害賠償の請求も含めて異議を述べない旨約し、同年九月二二日日東建設から右金員を受領した。

従つて、被告マンションに関する紛争は右和解によつて解決しているのであつて、原告の請求は右和解に反し許されない。

四  原告―抗弁に対する認否<以下、省略>

理由

一<証拠>によれば、

原告は、昭和四六年二月上尾市から別紙第一物件目録(一)記載の土地(原告土地)を買い受け、昭和四七年八月ごろ同土地上に同目録(二)記載の建物(原告アパート)を、昭和四八年八月ごろ同目録(三)記載の建物(原告居宅)をそれぞれ建築したこと、一方被告の父公明は昭和四五年一一月ごろ上尾市から原告土地の南側に位置する別紙第二物件目録(一)ないし(三)記載の土地(被告土地)を買い受けこれを放置していたが、昭和五四年初めころ同土地上にマンションの建築を計画し、その工事の施工を日東建設に発注することにしたこと、そこで同会社は同年五月ごろから下請会社に被告土地の地質調査のためのボーリングを開始させたが、その間公明は、マンション建築に要する資金の融資を日本住宅公団から受けることにするとともに完成後マンションを同人の息子である被告の所有とすることにしたこと、そのため被告マンションの建築工事は、日本住宅公団が建築主となつて昭和五四年七月ごろ建築確認申請手続等がなされた後、日本住宅公団よりその工事の発注及び監理業務を委託された住宅サービス公社が同年九月二〇日、日東建設との間で被告マンション建築の請負契約を締結し、日東建設が昭和五五年六月二五日ごろこれを完成し、そのころ被告は日本住宅公団から右マンションの譲渡を受けたこと、

以上の事実が認められこれに反する証拠はない。

被告マンションは間口25.4メートル、奥行11.5メートル、高さ14.6メートルの鉄筋コンクリー卜造り五階建ての建物であり、被告マンションの建築によつて原告アパートの南側開口部は終日日照阻害を受けるに至つたことは当事者間に争いがなく、また<証拠>によれば被告マンションの基礎工事が完了した後の昭和五四年一一月か一二月ごろ原告アパート南側のコンクリート基礎部分の数個所に約二、三ミリメートル幅の亀裂の生じていることが発見されたことが認められこれに反する証拠はない。

二原告は、原告アパートの前記コンクリート基礎部分の亀裂が被告マンションの基礎工事によつて生じたものであり、かつ右亀裂によつて原告アパートの耐久性が著しく損われることになつた旨主張するので、この点について判断する。<証拠>によれば、

被告マンションの基礎工事が施工されるに先立つて昭和五四年五月ごろ、被告土地の地質調査のために原告アパート南端から八メートル以上離れた同土地西側境界線から東側へ七メートル、北側・原告土地との境界線から南へ六メートルの地点と原告アパート南端からより遠い南側境界線から北へ五メートル、東側境界線から西へ四メートルの地点の二個所に直径五、六センチメートルの穴が掘られたが、その作業方法はボーリング用の機械によつてパイプを回転させながら地下約三〇メートルの深さまで押し込みつつ順次地層の地壤を採取していくものであつて、さほどの震動を発生させるようなものではないこと、また、被告マンションの基礎工事として昭和五四年一〇月初旬から中旬にかけて被告土地に杭打ちが行われたが、その工法も、予め用意したコンクリート製の杭をハンマーで打ち込む方法(打撃貫入)ではなく軸の先端にバケットを付けてそれを回転させながら土砂を掘削し、その掘削した土砂をトラックで運び出すとともに、その穴へ生コンクリートを流し込み杭を作るという方法(アースドリル工法)であつて、これまた工事による震動はほとんどないものであること、もつとも、右のように掘削された杭打用の穴は、いずれも深さ約二〇メートルで直径が1.5メートルのもの二本、1.3メートルのもの四本、一メートルのもの八本の合計一四本もあつたことから地下約三、四メートルのところにある地下水が絶えず湧出し、その結果穴の囲りの土砂が崩壊するなどして原告土地の地盤の弛みを誘発する虞れも多分にあつたが、それに対してはペントナイトと称する溶液を穴に流し込むことによつて一応その対策が講じられていたこと、一方、一般に生コンクリートには多量の水分が混入されているので、それが乾燥してくると体積が収縮して、いわゆる収縮クラックと呼ばれる亀裂が生じ易いところ、原告アパートは前示のとおり被告マンションの基礎工事が施工された当時すでに七年も経過し、そのコンクリート基礎部分は右収縮クラックの発生する可能性のある時期に達していること、また原告アパートのコンクリート基礎部分の亀裂は、前示のとおり幅二、三ミリメートル程度であるうえにその上にある建物自体に特に目立つた欠陥が生ずるに至つたところは窺えないこと、

以上の事実が認められ、これに反する証拠はない。

右認定事実を総合すると、原告アパート南側コンクリート基礎部分の亀裂が被告マンションの建築にともなうボーリング、基礎工事等によつて生じたものとは認めることができないし、また仮に右亀裂が被告マンションの建築にともなう何らかの工事、作業によつて生じたものであるとしても、それが原告アパートの耐久性に影響を及ぼすと認めるに足りないし、他にこの点に関する原告の主張を認めるに足る証拠はない。

そうすると、前示一の認定事実からして、被告が右マンション建築工事について注文者たる地位にあると解しうるかはさておき、被告の過失を論ずるまでもなく、被告は、原告アパート南側コンクリート基礎部分の亀裂について原告に対し、不法行為責任を負うということはできない。

三そこで、原告の日照・通風被害に関する損害賠償について検討するに、原告アパートは前示一のとおり被告マンションの建築によつて南側開口部において終日日照被害を受けるほか、<証拠>によれば、東側部分は以前から寺口保所有の三階建ビルによつて、ほぼ全面的に日照が遮られており、西側部分のみ、冬至においても、午後一時半以降に日照を得ることができる程度であり、かつ通風状態も悪いことが認められ、右認定に反する証拠はない。そこで、右のような被告マンションの建築によつて生じた原告の日照・通風被害が原告の受忍限度を超え、従つて原告の被告に対する損害賠償請求権が肯認されるか否かが問題となるが、被告は、この点についてその代理人たる日東建設と原告との間で昭和五四年五月九日に和解が成立している旨主張するのでまずこの点を判断する。

<証拠>を総合すると次の事実が認められる。

1  原・被告土地は国鉄上尾駅から徒歩で約五分という交通至便の場所にあり、かつ都市計画法八条一項一号、二項に規定する商業地域に指定された地域内にある(この点は当事者間に争いがない。)。もつとも、原告土地は商業地域に指定された地域の西側外れに位置し、その北側の一角にはほとんど木造二階建の一般住宅等があるだけで三階以上の中高層建物は見当たらないが、それ以外の周辺地域には例えば原告土地の東隣には三階建のビルが、被告マンションの一軒先の東隣には五階建のビルが、被告マンションの南西方向には四階建のビル三軒があるなど三階以上の建物も比較的存在するほか工場もあるうえに、原告アパートの北側にきわめて接近して建てられている原告居宅自体も三階建(一部四階建)のビルであつて、右建物も原告アパートの通風を阻害している。

2  原・被告土地の位置関係及び原告土地の利用状況はほぼ別紙図面のとおりであり、原告土地は東西の幅が約一〇メートルで南北の長さが約16.5メートルの細長い土地であるのに北側に前記原告居宅をその南側に原告アパートをそれぞれ建てて右土地を一杯に使つているので原告アパートの南側基礎部分は被告土地との境界線からわずか1.5メートルしか離れていない状態になっている。一方、被告マンションの建物自体は北側の原告土地との境界線から短いところで約二メートル(東西の各両端部分)、長いところで3.6メートル(原告アパートの南側に当たる東西幅一〇メートルを超える部分)をそれぞれ隔てて建てられているが、南面は道路との境界線から2.7メートルしかない。従つて、仮に被告マンションをこのままの位置で三階建にしたとしても、原告アパートの日照阻害は五階建のそれとほとんど変わりがない。

3  被告は、被告マンションの建築を行うに先立ち昭和五四年三月一日ころ、被告土地上に「建築予定の共同住宅についてのお知らせ」と題する右マンションの概要を記載した掲示板を設置して建築予定の右マンションの規模等を付近住民に知らせるとともに、右マンションの建築に関して必要な一切の手続の履行について被告から委任を受けた工事施工者である日東建設は、埼玉県、上尾市の各指導要綱に従つて、同年三月中に被告マンションの建築によつて生ずる虞れのある騒音、日照、電波障害等の問題について付近住民との間で話合いを行つて紛争を解決しておくべくその計画の内容を説明して回つた。日東建設の行つた説明に対し、原告と原告土地西側隣接地の所有者前島秀旦は異論を唱えたが、前島は被告マンションの建築位置を当初計画よりも更に一メートル南へ移動するという日東建設の提案を受け入れてその建築に同意した。右以外の住民で被告マンションの建築に反対した者はいなかつた。

4  これより先の昭和五四年三月の初めころ、原告は前記被告マンションの建築に関する掲示を見て被告土地上に五階建のマンションが建築されることを知り、右マンションが建てられた場合には原告アパートの日照が完全に遮られてしまいその結果、入居者も確保できなくなることを懸念して上尾市役所等へ相談に赴いたが、原・被告土地の所在地は商業地域に指定されていて建築基準法等の法令上は日照に関し特に規制されていない旨の回答を得ただけであつたためその対策に苦慮していた。従つて、原告は、前記のとおり日東建設の説明を受けた際にもあくまで被告マンションの建築に賛成しなかつた。そして、原告は、同年四月二八日ころ、埼玉県上尾土木事務所宛に被告マンションが建つと原告アパートは終日日照を受けられなくなり、入居者を得られなくなつて家賃収入も失うことになるので被告マンションの高さをもう少し低くするとともに、建物の位置を当初計画の線よりも更に二メートル南へ移動するよう被告や日東建設等を指導するようにとの陳情書(甲第一三号証)を提出した。

5  そこで、上尾土木事務所より原告と被告マンションの建築について更に話合うようにとの連絡を受けた日東建設は、同会社の従業員(埼玉営業所業務課長)桜庭をして原告との交渉に当たらせ、同人は同年五月一日ころ原告方を訪れ、原告と話合いを行つた。その際桜庭は、原告に対し、原・被告土地は商業地域にあるから、被告マンションのような五階建の建物を建築しても日照に関し、特に法令の規制を受けないし、原・被告土地の位置関係からみて、たとえ被告マンションを三階建にしたとしても五階建の場合と変りがないなどと説明して、被告マンションの建築に協力してくれるように説得したが、原告は主として被告マンションの高さを低くするように要求して桜庭の右説得に応じなかつた。そのため桜庭は同月七日ごろ再び原告方を訪れて同様の説得を行つたが両者の主張は一日の場合と同様、平行線を辿つたので桜庭はその打開策のひとつとして次回に金銭支払の提案を行う旨告げて話合いを終つた。そして、同月九日原告方を訪れた桜庭は、原告に対し、予め上司との間で協議してきた金額である金一〇〇万円の支払を提示したところ、原告から逆に金二〇〇万円を要求されたが、これを直ちに受け容れたため、被告マンションの建築に関し、右両者間に合意が成立した。なお、桜庭が原告との交渉の中で被告マンションの日影図を提示したか否か、原・被告土地は商業地域の中にあるから、原告は被告に対し、被告マンションの建築について損害賠償も請求できない旨告げたか否かは明らかでない。

6  右合意の結果、日東建設埼玉営業所長遠藤一彦及び桜庭が原告宛に差し入れた書面(甲第七号証、第一四号証)には、日東建設は原告に対し被告マンションを建設するについて建設協力金として金二〇〇万円を工事着工時に支払う旨の記載が、原告が桜庭に手交した書面(乙第五号証の一)には、原告は被告マンションの建築について「合議した結果、双方了解致しましたので御報告致します。」との記載がある。なお、原告が桜庭に手交した右書面の本文は原告自身がこれを記載したが、その宛名については前記陳情書を取り下げることを念頭においていたためこれを空白のままとしたのを後に日東建設において被告氏名と同会社名とを挿入した。ただ、原告は桜庭との間で右各書類を交換するに際し、右金二〇〇万円は、あくまでも前記陳情書を取り下げるために受領するものであるとか、右金二〇〇万円には、被告マンションの建築によつて原告が被る日照・通風被害の補償の趣旨は含まれていないとかもしくは右金二〇〇万円を受領しても右被害に基づく損害賠償請求権は、これを留保する等の明示の意思表示はしなかつたしまた桜庭においても右金二〇〇万円が原告の被る日照・通風被害に対する補償である旨明示した節は窺えない。

7  その後、日東建設は、被告の出捐した金二〇〇万円を昭和五四年九月二二日に原告に交付した(金二〇〇万円の授受については当事者間に争いがない。)が、昭和五五年二月末ころ、原告は被告に対し、被告マンションの建築によつて原告アパートが完全に日照被害を受けるようになり入居者が逐次退去していき老後の唯一の収入源であつた賃料収入も得られなくなつたので、その損害について話合いたいという趣旨の申入れを行つた。

以上の事実が認められ<る。>

右認定事実を総合すると、原告は被告土地上にマンションが建築されることを知つたころから被告マンションの規模、原・被告土地の位置関係等からみて被告マンションの建築によつて原告土地上の建物就中原告アパートの日照が完全に阻害されることをある程度予測し、専らそのことを重点において上尾市等へ問い合せたり、陳情を行つたりあるいは、被告から被告マンションの建築に必要な事項全般につき委任を受けた被告の代理人たる日東建設との話合いにおいても被告マンションの高さを低くするように要求するなどして原告アパートの日照被害を念頭において交渉に当たつていたのであるから、たとえ桜庭から被告マンションの日影図を提示されなくても、そのことによつて被害の状況を予測できなかつたものとは到底考えられないし、また桜庭・原告間に合意が成立するに至る右のような過程の中で原告が桜庭の提示した金一〇〇万円に対し、自ら金二〇〇万円を提示したうえ、合議の結果右両者が被告マンションの建設について了解したという文書をしたためたということはその交渉の経過からみても、その金額からみても(本件の場合、金二〇〇万円という金額は陳情書の取下げのみに対するものとしてはあまりに高額であつて、逆に、被告マンションの日照被害に対する損害の額とみても必ずしも低額にすぎるものとは考えられない。)、被告が原告の被る日照・通風被害を含めた被告マンションの建築によつて原告の被る損害(ただし、工事自体によつて被ることのある損害は除く。)を金二〇〇万円によつて賠償し、原告はその余の請求を一切しないという趣旨の和解契約が成立したものと解するのが相当である。

もつとも、原告は、仮に金二〇〇万円の授受によつて和解契約が成立したとしても、原告が被告主張の和解に応じたのは、実は商業地域内の建物であつても日照・通風阻害によつて損害を被る場合には賠償請求をなしうる余地があるのにかかわらず、桜庭が原告に対し被告マンションの日影図も示さずに、原・被告土地は商業地域内にあり、被告マンションの建築については日照に関し何ら違法はないので原告もこれに対して損害賠償を請求できない旨述べたため、原告はその説明を信じて被告マンションの建築については損害賠償を請求できないものと思い込んでいたからであるから、右和解は錯誤により無効であるし、また桜庭の右言動は原告に対し詐欺に当たるので右和解の意思表示はこれを取り消した旨主張する。しかしながら、仮に原告がその主張のように被告に対しては日照・通風被害につき損害賠償を請求できないものと信じたうえで金二〇〇万円を損害賠償としてではないものとして受領したのであつても、前記認定の経過でなされた金二〇〇万円の授受は主観的にはともかく客観的には前示のとおり原告の被る損害についての賠償金たる性質を有するものと解される。従つて、原告の右錯誤はそれが和解の前提たる事実の錯誤と解しうるとしても、単なる動機の錯誤にすぎないから、前示のとおり、原告において金二〇〇万円は損害金として受領するものではないとか、損害賠償請求権はこれを留保するとか何らかの明示の意思表示をしなかつた以上、原告の右錯誤は右和解の成立に影響を与えるものではないものというべきである。また、原告が右のような錯誤に陥つた原因が原告主張のような桜庭の説明にあつたとしても、建築基準法が昭和五一年法律第八三号によつて改正(昭和五二年一一月一日施行)され、同法五六条の二、別表第三の新設により、同法上始めて日照保護を対象とした従前の裁判例に劣らない相当厳しい規制が設けられるに至つたことからみて、同法施行後は右規制に適合する限りにおいては原則として私法上も受忍限度内であると解する見解もあることは裁判所に顕著な事実であるところであるから、桜庭が右規制から除外された商業地域内の被告マンションについて日照に関し何ら違法がなく原告に損害賠償請求権がないと述べたからといつてそのこと自体必ずしも論難すべきことではないうえに、前記認定事実からすると、桜庭はかかる見解に立ちながらも原告の日照・通風被害に関する主張を譲歩させるべく、自らも譲歩して金二〇〇万円という金員の支払に応じたものと認められるから、被告において原告の錯誤の主張はその動機が表示されなかつたことを理由に認められない旨主張したからといつてそれが信義則に反するという理由もないし、桜庭の言動が原告に対し詐欺になるという理由もないものというべきである。

従つて、右の点に関する原告の主張はいずれも採用しない。

そうすると、被告マンションの建築によつて原告が被つた日照。通風被害についての被告に対する損害賠償請求権は、昭和五四年五月九日に成立した和解によつて確定し、右和解に基づく金二〇〇万円が同年九月二二日原告に支払われたことによつて消滅したものと言わざるを得ない。

四以上の次第で原告の本訴請求はその余の点につき検討するまでもなくいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(高山晨 野田武明 友田和昭)

第一、第二目録<省略>

別紙

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